
坂詰美紗子のラブストーリー「一生分のワンシーン」 第九回
「 なんでちゃんと村上春樹 」
付き合いたての頃、彼はよく本を読んでいた。
「ねぇー?なんか、おすすめの本ない?」と尋ねると「海辺のカフカは読んだことある?」と聞かれ、私が読み終えると彼は次の村上春樹作品を買ってきてくれた。
私たちの付き合いを一言で表現するとピュアな恋愛ビギナーって感じだったと思う。
何処へ行くにも何をするにもお互いの行動を把握し、お揃いの時計もつけていて、
まるで時を共有しているみたいだった。
それを束縛とも言う。(苦笑)
だけど、今でも覚えている。
秒針が狂い始めた日のことを。
駅のホームで彼の腕にふと目をやると、そこには見覚えのない腕時計。
「その時計、どうしたの?」
不安な気持ちを抑えながら聞く私に彼の返事はあっさりしたものだった。
「いいでしょ。」
おっ!?いいじゃん♪いいじゃん♪
ってなるかいなっ!
お揃いの時計はどーしたのよ。なんで変えたのよ。心の中で暴れ出すなんでちゃん。
この頃から「なにしてた?」の電話も徐々に無くなり、
すっかり本を読まなくなった彼は、代わりに朝まで遊びに出かけるようになった。
すれ違う二人の時が止まると、もう元には戻れない。
さよならの結末。
今思い返してみても、ちょっと痛い恋だったけれど、この経験から生まれた曲もある。
自分がもっと鈍感な性格だったら、気付かずに済んだのかも知れない。
そんな思いで書いた “欲しいのは鈍感と君からの愛”というフレーズは
私自身、お気に入りで、「なんで なんで」という楽曲の中で大切に紡いでいる。
付き合う=束縛ではない。
お揃いの時計をつけていても、どんなに好きでも、お互いの時間と世界があることを忘れてはいけない。
先日、村上春樹の新刊を購入した。
村上春樹の本を手に取ると、本を買ってきてくれた彼の優しさを思い出す。
あの時は、ごめんね!それと、本当、ありがとね。